前の話ですが、お金にまつわる自分の反応を、いつもより丁寧に観察していました。
お金を払うとき、
「これだけ払ったんだから、ここまでしてほしい」と思っている自分がいる。
お金をもらうときは、
本当は嬉しいはずなのに、その気持ちを隠して、わざと淡々と、時には雑に受け取ってしまう自分がいる。
3000円を受け取ったときもそうでした。
内心では「ありがたい」「嬉しい」と感じているのに、
その喜びを表に出すことが、なぜか怖くて抑えてしまう。
一つ一つは、日常の中の小さな出来事。
それなのに、毎回どこか心の奥がザワっとする感覚が残っていました。
そのザワつきを辿っていくと、いくつもの感情が見えてきました。
請求書を見た瞬間の、理由のはっきりしない怖さ。
「騙されていないだろうか」という疑い。
期待通りであってほしい、という緊張。
そして、喜びを見せたら、何か大切なものを失ってしまうような不安。
特に強く感じていたのは、
「下に見られたくない」
「価値が低い人だと思われたくない」
という感覚でした。
なぜ、ここまで「下に見られること」を恐れるのだろう。
そう考えていく中で、自分の育ってきた背景に思い当たりました。
祖母は、全国を回って人の心を支える講演をする人で、
ある宗教の創設者の一番弟子でもありました。
私は、その祖母の第一の孫として生まれています。
上下関係がはっきりした世界。
「上の立場の人」「導く人」「ちゃんとしている大人」。
その空気を、子どもの頃から当たり前のように見て育ってきました。
さらに、両親の離婚を経験し、
私は幼い頃、心の中で何度も同じ言葉を唱えていました。
「早く大人にならなきゃ」
その頃に作られた、
「大人とは、感情を見せず、期待に応え、下に落ちない存在」
という定義を、大人になった今も、無意識に持ち続けていたのだと気づいたのです。
だからきっと、
お金をもらうことが「評価される場面」になり、
期待に応えられているかを常に確認し、
喜びを見せることが「格付けされる側に落ちる」ように感じていたのだと思います。
この気づきから、私は少しずつ行動を変え始めました。
お金を払うときは、
「これは私が選んだこと。
その後の提供の仕方は、相手の心の敷地」
そう心の中で線を引くようにしています。
お金をもらうときは、
喜びを無理に隠そうとしない。
表に出さなくてもいいけれど、
「感じている自分」を否定しない。
金額を提示するときは、
曖昧にせず、「ここまでが私の責任」と明確にする。
上下で自分を守るのではなく、
「私は私、相手は相手」という境界で関わることを選ぶ。
問題を避けるための行動ではなく、
どう在りたいかを基準に選ぶ行動へ。
まだ練習中ではあるけれど、
以前より、お金に対する緊張が少しずつ緩んできているのを感じています。
もしかしたら、お金のブロックは、
「お金そのもの」ではなく、
昔の定義を今も守り続けていることから生まれているのかもしれません。
今の私には、もう必要のない定義を、
これからも少しずつ更新していこうと思います。
あなたは、お金を前にしたとき、
どんな「当たり前」を握りしめているでしょうか?
